FC2ブログ

『早漏亭日乗』

  • --------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • 2013-10-10

西村賢太の魅力 ②

 前回に西村賢太の「痛快さ」について書くことを約束したが、考えがまとまらない。
 というか、陰惨でしかない貫太の振る舞いを読んで、なぜ笑えるのかがわからない。
 というわけでわかりもしないことを賢しらに語るのはやめにして、思いつくままに貫太本を読んで笑ってしまった部分をピックアップし、その感想めいたことを述べていくことにする。

① そもそも作者の視座が歪んでいる。
 前回も指摘したように、西村はたびたび「北村貫太」を「根が歪み根性にできている」というふうにことわっている。
 でも、読み進めているうちに「根が歪み根性」と貫太を分析する「作者自身の鑑識眼もじつは相当に歪んでいるのではなかろうか」という不安にかられてくる。

 「二度とはゆけぬ町の地図」という短編集に「腋臭風呂」という短編がある。
 当時18才の「私」は近所に気に入りの風呂屋をみつけ、そこに通うようになる。ところがやがて「私」と同じ時短帯に、強烈な腋臭の中年男が通ってくるようになる。腋臭男は湯船に入るまえに「股倉だけは念入りに洗う」。だが、肝心の腋の下は洗わない。

 何んぼ下湯の方は使っても、この小男ぐらいの重患の匂いでは、いっそ股はいいから腋だけは流してくれ、と懇願したくなってくる。
 
 「私」は湯船にこの中年男の「病的な腋臭成分」が溶け込んでしまっていることを想像し、薄気味悪くて腋臭男が浸かったあとの湯に入れなくなる。
 しかし、この腋臭男だって自ら望んで腋臭になったわけでもあるまい。
 問題なのはそのあとの「私」の独白である。

 私だってその後年にはひどいインキンに罹り、いっとき玉袋が煮崩れた里芋みたいになってしまったことがあったし、淋疾を病んだときも、遠慮がちながら銭湯は使わせてもらっていた。

 以下、その箇所に対する文芸評論家豊崎由美の指摘。

 ええええー、腋臭よりそっちのほうがキモイでしょう。どう考えても、そっちのほうが迷惑でしょう。………そういうことがわかっていないのも、また西村賢太の賢太たるゆえんなのである。

 豊橋は「そういうことがわかっていないのも、また西村賢太の賢太たるゆえん」と断言しているけれど、本当にそうなのだろうか。ぼっちには西村が「ほんとにわかっていないのか」、じつは「意図的にボケているのか」が、よくわからないのである。
 いずれにしても賢太本にはこのような「作者がバカなのか、技巧的なのかよくわからないくだり」が散見する。
 とどうなるかというと、小説世界の理非曲直がグダグダになる。
 狭隘な不条理というか、アンダーグラウンドな没倫理というか、そういうでたらめな世界に「根が歪み根性」の主人公が生きているせいで、筋立ては二重の意味で歪んでおり、いつ、どういう「とんでもないことが起こるのか」予断を許さない。
 ある意味、サスペンスがかかっているのである。

  • 2013-09-06

西村賢太の魅力 ①


賢太



 遅ればせながら「苦役列車」を読む。
 読み終わるや、たてつづけに二度読む。
 それだけでは飽きたらず翌日には近所の本屋に置かれたすべての西村賢太本(6冊ほど)を買い込み、それもただちに読んでしまった。

 西村賢太は私小説作家である。
 なので当然だが、彼の書く小説はすべて「私」を、あるいは彼のアバターである「北町貫太」を主人公とした私小説である。
 しかし、じつをいうとぼっちはこの私小説というジャンルがたいへん苦手なのである。(だから「苦役列車」にもなかなか手が伸びなかったのだ)
 にもかかわらず西村賢太の私小説は面白い。
 たいへん面白いと思う。
 では、どうして私小説が苦手であるぼっちが、西村貫太の書く私小説だけを例外的に面白いと感じたのか?
 そのことをつらつらと愚考してみた。

 太宰治に「人間失格」という小説がある。
 私小説ではないが、「自伝的、私小説的傾向の強い」と呼ばれている小説である。
 高校生のころ、おれはこの小説を読み始めた途端、なぜだかムカムカムカムカしてきて、読み終えるや語り手である主人公葉蔵に対し、「なんて嫌な野郎なんだ!」と唾でも吐きつけてやりたいような気持ちになった。
 ところが当時の文学青年にとって(おそらく今の若い読者も)「人間失格」はたいへん支持の高い小説だった。多くの文学青年は、自分の恥と弱さをこれでもかとさらけだし、身もだえしている葉蔵の姿を、自分自身と重ね合わせ「まるで自分のことが書かれている」ようだと感じたのである。実際そんなようなことをいって「人間失格」を絶賛する友人も何人かいた。
 しかし、当時(も、今も)自分の読解力というものにまるで自信が持てなかったぼっちは、自分の感じた「人間失格」に対する不快の理由をうまく説明することができなかった。

 いったいなんでこんな嫌な小説を支持する奴が多いのだろう。
 ところでおれはなんでこの小説がこんなに嫌いなんだろう。
 長じてその答えらしきものを、岸田秀著「ものぐさ精神分析」から教えてもらった。

 岸田は同書「自己嫌悪の効用」という章で、「人間失格」を自己嫌悪のメカニズムとともに分析している。
 まず岸田の考える「自己嫌悪」のメカニズムをぼっちなりに要約してみる。

①自己嫌悪という以上、一人の自分の中に、「自分を嫌悪する自分」と、「嫌悪される自分」というふたつの自分が存在する。

②「嫌悪される自分」とは、「酒に酔ってつまらない見栄を張ってしまった自分」であったり、「欲にかられてみっともない真似をしでかしてしまった自分」であったり、おおむね過去に存在した「現実の自分」である。
 早い話、地金をみせてしまった「痛い自分」である。

③一方、「嫌悪する自分」はどこにも現実的基盤を持たない。
 すなわち「嫌悪する自分」とは「架空の自分」である。
 そして、その「架空の自分」は、「痛い自分」よりはるかに高いステージにいる「高貴で汚れのない自分」という風に設定されている。
 だから「高貴な自分」は「痛い自分」を簡単に受け入れることができない。よって「痛い自分」を恥じ、嫌悪するわけである。
 さらにそのとき自己嫌悪に陥っている人間はこの「高貴で汚れのない自分」こそを「真の自分」であると設定している。

④「真の自分」が「痛い自分」を恥じ、嫌悪し続ける限り───いや、むしろ嫌悪し続けることによって───つまり、人間は自己嫌悪におちいることによって、「真の自分の高貴性」を少しも損ねることなく大切に温存してしまうことになる。
 それどころかいっそう「真の自分の汚れなさ」を強化してしまう。

 簡単にいってしまうと「痛い自分」を材料にして、「真の自分」をより美しく仕立て直す狡猾きわまりない「詐術」、それこそが「自己嫌悪のメカニズム」なのである。

 岸田の指摘する通り、「恥の多い人生を送ってまいりました」で始まるこの「人間失格」は自己嫌悪の感情を通底音とした小説である。
 語り手である葉蔵は、クラスメート一人「馬鹿の竹一」に、自分の意図的な道化を「ワザ、ワザ」と見破られると、
「わあ!と叫びだしたくなるような激しい自己嫌悪」
 にかられる。
 また、葉蔵はカフェの女給と入水自殺を企て、女給だけを死なせてしまい、(なのに葉蔵はその心中相手である「ツネ子という女給の名前」さえもよく覚えていない)、自殺幇助の罪で検事から取り調べを受ける。
 そのとき葉蔵は「何かの役に立つかもしれない」と詐病を謀り、少しばかり大げさに咳をしてみせ、それを検事から「ほんとうかい?」と指摘されただけで、
「冷汗三斗。(中略)検事のあんな物静かな侮蔑に遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだった」
 とまで思うほど、「自分の詐病を見抜かれたこと」に赤面混乱し、自己嫌悪に陥る。

 自己嫌悪がある程度、苦痛なのは確かである。しかし、他者を嫌悪するような具合に自己を嫌悪することは決してできない。自己嫌悪をよく考察してみると、たとえば自分のあるいやらしい行為を嫌悪しているとき、そのいやらしさの肝心なところはすっぽり抜けており、「どうかしていた」自分の行為として許せる範囲内の、むしろ末梢的な点が主として嫌悪の対象となっている。(P292)

 つまり、「真の自分」が、あえて「枝葉末節的な失敗」をことさらに嫌悪することで、自分の本質的な「卑しさ」を隠蔽してしまう。
 たとえば葉蔵は、知り合ったばかりツネ子の衣類まで持ち出して酒にかえ、すぐに別の女のところにころがりこんだりしても別段自己嫌悪にはかられない。「自分が心中を持ちかけたためにツネ子が死んでしまった、つまりツネ子を間接的に殺してしまったという事実」に対しても、さして自己嫌悪は感じていないようで「メソメソ泣いている」だけだ。

 彼は相手に与えた苦しみや侮辱や損害のことは少しも気にかけておらず、ただ、自分がどう思われたかということだけが気になるのである。(中略)
 奥野建夫氏によれば、「この作品は、ある性格を持って生まれた人々の、弱き美しきかなしき純粋な魂を持った人々の永遠の代弁者であり、救いである」そうだが、私にいわせれば、『人間失格』は、このうえなく卑劣な根性を「持って生まれ」ながら、自分を「弱き美しきかなしき純粋な魂」の持主と思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の「救い」を提供する作品である。
(P298)

 勘違いして欲しくないが、ぼっちは太宰治という作家が嫌いでこんなことを書いているわけではない。
 むしろ好きだし、さまざまな作品に敬意を抱いている。
 でも、「人間失格を書いている間の太宰」は、やはりどうかしていたと思う。(このあと「グッドバイ」を書きかけのまま自殺してしまうのだから、やはり彼の精神はこのときそうとうまいっていたのだろう)

 岸田は「自己嫌悪の効用」を解いて「語り手の葉蔵」を分析しているが、もちろん同型のメカニズムは作品と作家の間にもはたらいているのだと思う。
 「自分の恥をさらけだした作品」は、じつは「弱き美しきかなしき純粋な魂を持った自分」の視座から描かれている。というより「恥をさらけだせば」それを読んだ読者が「自分を弱き美しきかなしき純粋な魂を持った作家」であると誤読することを、あらかじめ無意識のうちに想定している。
 しかし、作者は「自分がそのような卑しい詐術をもちいているという恥」だけは描くことができない。 
 これは、もう、原理的に描けない。
 つまり、作者は「人間失格」を書いている当の自分の手が相当汚れていることに気づいていない。あるいは気づかないふりをしている。

 太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。(中略)
 死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない。舞台にあがったM・Cにフ ツカヨイは許されないのだよ。覚醒剤をのみすぎ、心臓がバクハツしても、舞台の上のフツカヨイはくいとめなければいけない。
(坂口安吾「不良少年とキリスト」より)

 坂口安吾はおそらく岸田の指摘した「自己嫌悪の効用」のようなものを「フツカヨイ的」と評したのだと思う。
 そして、ぼっちは「私小説」と呼ばれる小説の多くが「自分をさらけだす」という身振りでもって、じつにこの「フツカヨイ的」傾向を帯びているように感じてしまうのである。(西村賢太が愛読し、解説で石原新太郎が賞賛し、太宰の弟子であった田中英光の私小説などにも同じような印象を持ってしまう)

 西村は小説の中で「根が──な私」ないしは「根が──にできている貫太」といういい方で、たびたび自分の性格を吐露している。
 「苦役列車」という短い小説の中にも、ざっと以下のような記述がある。

「根が人一倍見栄坊にできている彼」
「根が意志薄弱で目先の慾にくらみやすい上、そのときどきの環境にも滅法流され易い性質の男」
「根が全くの骨惜しみにできている彼」
「根が歪み根性にできている貫太」
「根が野球好きで、小学五年の頃までは将来日本ハムの選手以外に自分が就く職業はないと頑なに思っていた貫太」
「根が柴犬みたく人見知りにできていることに加え、ひどく狽介なところのある彼」
「根が気(き)崇(がさ)にできている貫太」
「根は至って小心にできている質の男」
「根が頑丈にできている」
「根が案外の寂しがりにできている貫太」
「根がプライド高くできている」
「根は至極大甘にできている貫太」

 貫太の性格に、「健康的な傾向」「建設的な傾向」はなにひとつ見受けられない。どれをとってもマイナス傾向だけでできている。(「根が柴犬みたく人見知り」って笑えますね)
 一言でいってしまうと「たいへん扱いずらいダメ人間」である。

 実際彼の採る選択、判断、行動は、見事なくらいすべて間違っている。

 恨まなくていい人を恨み、疑わなくてもいい友を疑い、傷つけなくていい女を傷つけ、怒る資格もなく、怒る場面でないところで激高し、口にしてはいけない言葉を吐き、奮わなくてもいい暴力を奮う。つまり「痛い振る舞い」に終始している。
 もちろん彼だってそのあと反省したり後悔したりすることもある。
 でも、別段「自己嫌悪」には陥らない。
 どうやら彼には「真の自分=高貴な自分」という視座がないのである。
 というかむしろ「真の自分」は「痛い自分」と同程度に「ダメな自分」なのである。
 なので「真の自分」は「痛い自分」を嫌悪する資格を持っていない。「とりあえずダメな自分と痛い自分でやっていくしかないな」という圧倒的な諦観(あるいは居直り、開き直り)のようなものがある。
 貫太は自分自身から見ても「ダメで、痛く」、しかし傍からみても「ダメで、痛い」。
 自他ともに認める「ダメ人間」である貫太は葉蔵のように、「読者に耳打ちするような」語り口で自分の恥を告白したりはしない。(耳打ちする意味がない)
 「西村式近代小説言語」とでもいえばいいのか、滑稽すれすれの物々しい文章を駆使し、凄まじい筆圧の高さで「堂々と自分の恥」を語ってゆく。
 その内容はあまりにあさましく、むごたらしく、セコイ、まさに「人間失格」と呼ぶべき生き様である。
 しかし、この「人間失格」を描く西村の手は、太宰のように汚れていない。
 「卑しい詐術」を断固として拒んでいる。
 不思議なことに「自己嫌悪の効用」から免れているのである。


 「貫太は自己嫌悪にかられない」と断言しておいて、こういうのもなんだが、じつは「苦役列車」の中には一か所だけ貫太が猛烈な自己嫌悪にさいなまれるくだりがある。

 貫太は港湾労働で知り合った同じ年の日下部と、しばしば一緒に風俗に通うような間柄になる。だが、ある日、日下部からあっさりとその同行を断られてしまう。
「お前には別にいうことでもないと思ったから今まで黙ってたんだけど、俺、つきあってる子がいてな。なんかその子に悪いから、しばらく風俗に行くのはやめとくよ」
 本当は日下部に恋人がいたことに激しいショックを受けるのだが「根がプライド高くできている貫太」は、表面上はまるで動揺を受けていないように、
「おめえの方こそ今夜はせいぜい恋人と、じっくり時間を過ごすがいいよ」
 などと、余裕をかまし、にっこり笑って日下部と別れ、自分一人で池袋の安風俗に向かう。
 しかし、風俗で本番を済ませ、三畳の自室に帰ってくると、日下部と新しい恋人との熱いセックスを想像し、激しくそれを羨望する。

 適度に使い込まれている、最も食べ頃のピチピチした女体を、彼奴は今頃一物を棒のように硬直させた上で、存分に堪能しているのであろう。

 それに引き換え、貫太のセックスは、

 三十過ぎの糞袋ババアに一万八千円も支払って、「痛いから指、やめて」なぞ、えらそうにたしなめられながらの虚しい放液

 に過ぎない。

「───理不尽だ」
 独りごちた貫太は、次にふいと最前の糞袋の口臭が、腐った肉シューマイみたいだったのを思いだし、ブルッとひとつ、身震いをはらう。
「畜生。山だしの専門学校生の分際で、いっぱし若者気取りの青春を謳歌しやがって。当然の日常茶飯事ででもあるみてえに、さかりのついた雌学生にさんざんロハでブチ込みやがって」
 貫太の口から呪詛が洩れ、それにつられるようにまたもや先の糞腸淫売の股ぐらより、無様にビロンとはみ出していた黒い襤褸切れみたいなものを思い起こして、彼は激しい自己嫌悪に頭をかきむしるのであった。
(P91)

 貫太の自己嫌悪は「糞腸淫売の股ぐらより、無様にビロンとはみ出していた黒い襤褸切れみたいなもの」と対になっている。
 貫太はこれほど醜悪な女性器を対象にしないと「自己嫌悪」すらできない。
 あさまし過ぎて、笑える。

 というわけで次回は賢太本の「痛快さ」について愚考したいと思う。
  • 2013-08-18

近況報告

 ここひと月ほど、このブログの過去記事を読んでやたらと「拍手」を押してくれる方がおられます。
 どなたかは存じませんが、どうもありがとう。
 更新が滞って後ろめたいです。

 これからはあまり気負わずに(備忘録、日記風の記事でも)書いていこうと思います。


 ぼっちの近況

①出会い系の体験談を書いている。
 しかし、ぼっちはそもそも「出会い系サイト」の会員になった経験がない。
 であるからして当然だが、出会い系サイトを通じて女性と「出会った経験」がない。
 であるからして当然だが、出会い系サイトを通じて女性と「セックスした経験」もない。
 でも、記事内のぼっちは、無数の女性と出会い、そして変態行為を繰りかえしている。
 かれこれ1000人以上の、しかも比較的綺麗な女性たちと。
 そーゆー記事を書きつづけているうち、ぼっちの「恥歴」は次第に曖昧になり、いまではうっかりすると記事通り自分が「女子1000人切りを断行した平成の好色一代男」だと錯覚するよーになっている。
 書いている最中は、あろーことか思いあがったりもしている。
 こんなことをつづけていていーのであろーか。

②風俗体験談を書いている。
 おもに「デリバリーヘルス」(略してデリヘル)から女の子を呼んで、変態行為をくりひろげる記事である。
 しかし、そもそもぼっちはデリヘルを利用した経験がない。
 それどころか「風俗体験」といったら、過去に2回だけ(しかも30年まえ)「ソープ」に行ったことしかない。(あ、とても悲惨な「ヘルス体験」ならある)
 なのに記事内のぼっちはかれこれ500人近いデリ嬢に「おまんこ検診」を行ったり、それを品評したり、フェラしてもらったり、クンニしたりしている。
 そんな記事を書きつづけているうち、ぼっちの「恥歴」はいつの間にか書きかえられ、いまではうっかりすると自分が「稀代の風俗専門家」だと錯覚するよーになっている。
 そして、記事を書いている最中は、読者にむかってあろーことか風俗について講釈したり説教さえし始めている。
 こんなことをつづけていていーのであろーか。

③長編小説を書いている。
 出会い系体験談と風俗記事の執筆に時間を忙殺され、さっぱり進まない。
 こんなことをつづけていていーはずがない。


 最後にこの夏の恐怖体験をひとつ。

 ぼっちの隣家はとあるお金持ちの「別荘」として利用されている。
 といっても年間を通じ、ほとんど家主は訪れない。
 客も訪れない。
 つまり「別荘」とは名ばかりの「万年空き家状態」なのである。
 
 ぼっちの仕事場はその「空き家」の隣の2階部屋で、窓からみえる風景の半分ほどは「空き家」の1階の屋根が塞いている。
 ぼっちは1日中その部屋にこもって仕事をし、仕事の合間によく無修正動画を見たりしている。

 で、まあ、1週間ほどのまえのことだ。
 怖ろしいその事件は、起こるべくして起こった。
 その日、隣家の屋根には、雨どいと雨漏りを修繕にやってきた瓦職人が立っていた。
 しかし、そうとは知らないぼっちは、その二人の瓦職人に、

 無修正動画を鑑賞しながらオナニーしているところを目撃されました。

 しっかりと。
 うたがいの余地なく。
 左手にはウェットテッシュまで準備しており、職人さんと目さえ合わせました。
 お互い、ひじょーに気まずかったです。
 隣家の家主よ。
 住んでもいねーのにいきなり修理なんかするなや!
 死にたい。
 がんばれ、矢口真理。



 

 
  • 2012-10-27

柴田千晶「生家へ」(思潮社)

生家へ2



 友人の詩人、柴田千晶さんが、
 自作詩集を送ってくれた。
 表題は『生家へ』。
 さっそく読み始める。
 「春の闇」
 「朴の実」
 「驟雨」(28ページ)
 まで読んで、ため息を洩らし本を閉じる。


 まずいことになったな、と思う。
 なんとなく本の中から、包丁を研ぐような音が聞こえてくるのである。
 いくぶん緊張しないことには読めないのである。
 くだらない出会い系記事を書いている合間に、椅子にふんぞりかえって読めるような本ではない。
 そんなわけで仕事をやっつけてから、一気に読んでみた。

 考えてもみると(いや、考えるまでもなく)いままでおれは、書くにしても、読むにしても、観るにしても、エロバカバイオレンスコメディオンリーの、───つまり通俗一辺倒の低俗男だった。
 自慢ではないが、好きな詩はと問われたら、昭和歌謡のワンフレーズくらいしか思い出せない、詩についてたいへん造詣の乏しい人間である。
 そのような男が、柴田さんの詩をどう読んだかのか。
 あるいはお呼びじゃなかったのか。
 思うところを書いてみたい。

 「生家」とは普通、「その人の生まれた家」を意味する言葉である。
 でも、読みすすめるうち、柴田さんの書いている「生家」には、どうやら違う含意もありそうな気になってくる。
 とうの昔に滅びたはずなのに、いまもどこかにひっそり佇んでいる家。
 ゾンビのように殺しても殺しても生きかえってくる家。
 理由はわからないが、とにかく「生きている家」。
 柴田さんの生家は、そういう「生家」でもあるのだ、きっと。
 なんだかホラーである。
 あまり帰りたい家ではない。
 ていうか、もう全然近づきたくない。
 それなのに彼女のゆくところ、生家にみちびこうとするあやかしの回路のようなものが、あっちこっちで待ち伏せている。あるいはふいに出現して彼女を誘導する。
 たとえばその回路は、
「闇に滲む椿の赤を避けながら歩く。と、それは椿などではなく、鶏の赤い鶏冠だった」り、
 京浜急行から見下ろすちょんの間街に投げだされた「切断されたような女の足」だったり、 
 「懲罰のように崖の上に建ち続けて」いる殺人者の廃屋だったり、
 炎の形をし、じつは男性器にも見える朴の実だったり、
 男が眠るシーツの上でウイーンウイーンと蠢く黒いバイブレーターだったり、
 アパートの窓辺で女の腋毛を剃っている男だったり、
 網タイツに浅蜊を詰め込む女だったり、
 ときには「犬っこ祭りで賑わう商店街」であったりして、
 獣の血の匂いや男が食ったという得体の知れない肉の味や死んだ貝たちの放つ腐臭とともに、彼女をひょいと体液の濡れ光るほの暗いところにテレポートしてしまう。
 彼女が移動を続ける場所は、気だるく凄惨で、容赦ないのに生温く、ときにグロテスクで、そして、ときに綺麗なのである。
 D・リンチの映画に登場する異形者たちが、うっかり美しくみえてしまうように。


女2


 柴田さんはいま『詩客 SHIKAKU』というサイトで、詩評エッセイ「黒い十人の女」を書いている。
 「黒い十人の女」とは、10人の女凶悪犯(あるいは被害者)のこと。
 その後ろ暗い「黒い女たち」と女流詩人とを重ね合わせ、詩人の作品と来歴を論じている。
(最新作は「寺田京子×東電OL」)
 しかし、柴田さんはどうして女流詩人と黒い女を重ねてみようと思ったのだろう。
 いや、なぜ「重ねることができる」と思ったのだろう。
 おそらく彼女は詩作を犯罪と同じようなものだと考えている。
 同じようにむごいと思っている。
 だとすると、このエッセイには11人目の黒い女がいるはずである。
 いなければおかしい。
 もしこのエッセイで「女流詩人柴田千晶」を扱うとしたら、柴田さんは自分にどんな女凶悪犯を重ねるのだろう。
 詩集の主人公である「私」は、生家に自分の身体を差しだす生贄のようでもあり、重罪を犯し、生家にたどりつこうと喘ぐ逃亡犯のようでもある。

 春の闇バケツ一杯鶏の首

 それぞれの詩編は小見出しとなった俳句から始まり、いろんな男と交わり、胚胎し、転生したりしながら、よくわからないストーリーがループ状になって展開していく。
 そう。
 この詩集には、粗筋をいえといわれると困るけど、へんてこなストーリーがある。
 それは俳句という「定型詩」と「現代詩」のコラボが関係しているのか。
 コラボの効果がへんてこなストーリーにつながっているのか。
 正直よくわからない。
 だっておれは定型詩のことも現代詩のことも、そもそも詩のことだって全然よくわかってないのだ。
 おれの場合、文学についてわからないことは、すべて小説家の高橋源一郎さんに丸投げすることになっている。
 というわけでさっそく訊いてみよう。
 高橋さん。
 ところで詩っていったいなんなんすか?

 詩の本質と考えられるものの一つに、「改行」があります。「改行」というものは、なぜ存在するのでしょうか。詩人に聞いてもはっきりとは答えてくれません。わたしの考えでは、詩人が改行するのは、その行のところでことばの角を曲がるからです。一つの行を書く、ある場所に到達する。その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。それに対して、詩人は角に来たら曲がりたくなる性質を持っています。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです。角を曲がるとまた角がある。───『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎(岩波書店)

 さすが高橋さん。
 エロバカ文化人にもわかるように諭してくれる。
 高橋さんに倣えば、詩人とは、

 改行することによって、ついことばの角を曲がってしまう人。
 ことばの角に差しかかったら、角の向こうに「自分の知らないなにかがあるのではないか」という思いにかられ、その角を曲がらずにはいられない人。

 ということになる。
 でも、高橋さん。
 困ったことに柴田さんの書いているのは「俳句」と「散文詩」なんです。
 俳句は一行で済んでしまいます。
 散文詩のほうはほとんど「改行」してません。
 つまり、この詩集には「ことばの角」が極端に少ないんです。
 っていうか「ない」に等しいんです。
 となると、柴田さんは詩人の本質からずれているってことになるんでしょうか?

 歌人の三宅やよい氏は、『週刊俳句』で柴田さんの詩集をこう評している。

「湿ったもの」の正体 柴田千晶『生家へ』を読む
 柴田が表す体は男性が女性の「身体性」と語るとき頭に思い描く女性らしき身体または、女性が男性を引き付けるために差し出す媚を含んだ「身体性」とは明らかに違う。見せられると嫌な女の性欲があからさまな「身体性」である。しかしそのぬめった性欲も交錯する死と隣合わせであるがゆえに滅びを予感させ、肉体があることの悲哀さえ感じさせる。


 と、この詩集のオリジナリティを評価したうえで、

 しかし、一つ不満を述べれば話が面白すぎる。
 ストーリーテラーとしての柴田の資質が踏みとどまるべき言葉を追い抜かして話を形づくってしまったように感じる部分がいくつかあった。ここまで書いてしまうと小説に手がかかっているのでは、そんなことも予感した。


 と、いう風に釘を刺してもいる。
(「不満を述べれば話が面白すぎる」といういい方は、いくぶん屈折した「褒め言葉」でもあるのだろうけど)「踏みとどまるべき言葉を追い抜かして話を形づくってしまったように感じ」た三宅氏は、詩の境界をはみだそうとする柴田さんの「過剰さ」に対し、やんわりと自制をうながしているのである。
 でも、これは「詩の側」からの感想である。

 じつは柴田さんは詩や俳句の他に、映画やドラマや漫画のシナリオも書いている。
 いわゆる風俗小説も書いている。
 つまり、さまざまな通俗文芸(文学、ではないと思う)にも通じている。
 通俗文芸的な文脈の中に、不用意に「詩的な言葉」や「観念的言語」を放り込むと、それがどれほど陳腐なものに変わってしまうかも、柴田さんはおそらくよくわかっている。
 つまり、「使う道具が違うこと」をわかっている。
 もし、この詩集を原作とした「風俗小説」の注文が入れば、柴田さんはすぐさま同じ材料を違う道具を使って通俗作品に仕立て直すことのできる腕を持っている。
 だから、

 ここまで書いてしまうと小説に手がかかっている

 という三宅氏の感想は、深く同意できるにかかわらず、「通俗の側」に立っているおれにしてみると、まったく正反対の掻痒を覚えるのである。
 だって、この詩集にはシナリオに於ける「売り」があって「買い」があり、ときには「ドンデン」めいたものまで散りばめられているのだ。(クライマックスでは、母の描く生家の間取り図とともに、部屋がどんどん増殖してゆき、襖を開くたびに、顔見知り男女が絡み合い、しまいには近親相姦にまでなだれ込む壮大な鬼畜乱交シーンとなる)

 ここまで書いちゃったんなら、いっそ小説にしちゃえばいいじゃん!

 何度かそう思った。
 つまり、おれは「小説に手がかかっている」という三宅氏とは逆に、この詩集にはむしろ「小説にさせないための」禁欲や抑制が、かなり強くかかっていると感じたのだ。
 この作品はギリギリで小説にならないでいる。
 なんで詩なんだ?
 高橋さんは詩人と小説家との違いを、以下のようにいっている。

 その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。
 ──中略──
 小説家なら角ではなくメインストリートをまっすぐ歩いていきたいと思うでしょう。しかし詩人はその角の向こうにある、隠されているなにかが気になってしょうがない存在なのかもしれません。


 では、ここで柴田さんに俳句創作の要諦について述べてもらおう。

 深入りするうちに俳句が恐ろしい詩形であることに気づいた。俳句は定型の枠に従順に収まることを望まず、定型を簡単に破ることも望まない。一句の中で風景、肉体、記憶、時間、イメージ、色彩、観念などが犇めき合い爆発寸前で屹立している。(「生家へ」あとがき)

 柴田さんは、きっと孫悟空の頭にはまった緊箍(きんこ)のようなものを巻いて俳句を創っているのかもしれない。
 過剰でなければならず、しかし逸脱は許されない。
 逸脱しようとすれば、(逃げようとすれば)俳句が呪文を唱えて緊箍がギリギリと頭を絞めつけてくる。
 だったら詩の場合はどうなのだろう。

 定型という枠のない詩もまた怖ろしい。果てしなく増殖してゆくイメージに溺れてしまえば帰る岸を見失う。

 柴田さんは詩に対し「定型という枠のない」といってる。
 でも、本当に詩に「枠はない」のだろうか。
 詩は彼女に呪文を唱えてはいなかったのだろうか。
 彼女は緊箍からそれほど自由だったのだろうか。
 (通俗文芸にも通じた)柴田さんは、この詩集を手掛けている間、ときには小説家のように「ただ早く目的地に着」きたくて、「メインストリートをまっすぐ歩いていきたい」という誘惑にだってかられたはずだ。でも、そのくせことばの「角の向こうにある、隠されているなにかが気になって」仕方なかったのだ。
 駆け抜けたい。でも、のぞきたい。
 食べたい。でも痩せたい、と同じダブルバインド。
 定型から逸脱したがる俳句と、
 小説に手がかかった散文詩は、
 じつは同型の緊箍にギリギリ絞めあげられている気がおれはしたのである。

 生家へたどりつくには、通俗文芸が隠し持っている「説明という道具」は使えない。
 詩はそんな都合のいい道具の使用を許さない。
 緊箍を嵌め、素っ裸で、
 いがだらけの隘路を行く罰当たりを、あるいは詩人と呼ぶのかもしれない。


 
 ほとんどどうでもいいことですが、柴田さん。
 おれの小説と柴田さんの詩集に、ひじょうに似た言葉がふたつだけありました。
 ひとつは「汐まねき」。
 おれの場合は「潮まねき」。
 柴田さんの汐まねきは「蟹」です。
 でも、おれの潮まねきは「おもちゃ」です。(はい。そのおもちゃが、海ではなく女性から潮を呼び寄せるわけですね)
 もうひとつは「設楽」という男の名前。
 おれの場合は「シダラ」という変態筋肉オタクのヤクザの名前に使いました。
 偶然です。
 最後はかっこよく俳句で締めるつもりだったのに、やっぱり創れなかったので、こんなどうでもいい話になりました。
 あと、この記事の挿画と柴田さんの詩集とはまったく関係ありません。
 じゃ載せるなよ。
 じゃんじゃん。

Top|Next »

HOME

月見野ぼっち

  • Author:月見野ぼっち
  • へっぽこ脚本家。
    ときどき官能小説家。
    50歳。妻子あり。
    神奈川県鎌倉市に住んでます。
    ブログ歴5年。
    くだらない、でもみょーに気になるセックスの内輪話をしています。
    コメントお待ちしています。
    あ、リンクはフリーです。
    ご自由に。


    ☆ぼっちの小説です。読んでみてくださいね☆

    「縦書き文庫」月見野ぼっち




yonakiya < > Reload

このブログをリンクに追加する

全タイトルを表示

この人とブロともになる



21.gif


blogram投票ボタン




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。