女が電車の中で化粧をするのは世界でも日本だけだそーである。
なるほど。
「電車でメイクをする女」は、世界に先駆けて日本に出現した(今後世界のどこにも出現しない気もするが)「新種女」なわけだ。
「電車メイク女」をみかけるよーになったのは、
いったいいつだっただろー。
もーよく覚えていない。
いまではビシッとスーツを着たOLや、けっこー品のよさそーなおばさんも(つまり意外と思われる方々までもが) 、
座席に坐るなりコンパクトを開き、
あるいは吊革につかまりながらマスカラを取り出し、
人目もへったくれもなくメイクアップに励んでおられる。
なかには自宅で「下地作り」だけをすませてから電車に乗り込んでくる女性もおられるし(こーゆー女性がいきなり目前に出現するとたいへん怖い。眉毛がなくて顔が真っ白だからである)、
あるいはまた、メイクの段取りを「停車駅」ではかりながら取り組んでいる方もおられる。
おれがよくみるその女性は「大船駅」で乗り込みまず携帯電話をチェック。「戸塚駅」あたりでおもむろに手鏡(最近の方はコンパクトではなく堂々とした手鏡である)を取り出して下地作りを開始。「横浜駅」を過ぎたあたりからアイメイクにとりかかり、「恵比寿駅」でメイク終了。化粧品を仕舞っている間に「渋谷駅」に到着。すっかり変身してから下車してゆく。
ゆーまでもないが彼女にとってそれが「朝の日課」なのだ。
ある意味日課を厳守する「規則正しー暮らし方」をしている方なのかもしれない。
気がつくと「そーゆー光景」もすっかり定着してしまった。
しまったが、ぼっちはいまだに「電車メイク」に「見慣れること」ができない。
「電車メイク女」に出くわすとたいへんユーウツになってしまう。
ときにはいたたまれず車両を移動してしまうことすらあるのである。
いったい「電車メイク」のなにがここまでおれをユーウツにさせるのであろーか。
たとえば「電車メイク」は、
「車内での携帯通話」とか「ヘッドフォンからの音漏れ」などのマナー違反とはちょっと質が違う。
べつに誰に迷惑をかけてるわけでもない。
それなのに「電車メイク」をみるとみるみる元気がなくなる。
とゆーか身体の特定部位が萎えるのである。
そーである。
おれは「電車メイク女」に遭遇すると、
いちじるしく性欲が減退してしまうんである。 なぜ性欲なのか。
たとえばこれまでじつに恥多き人生を送ってきたぼっちですら、
電車の中でヒゲは剃らない。
歯も磨かないし、爪も切らない。
「みだしなみ」はあまり人目につかない場所で済ますことにしている。
なぜかとゆーと「みなしなみ」の最中に、おもいきりネガティブな自分をさらしていることが多いからである。なおかつその欠点をごまかそうと悶絶しながら極私的格闘をしているケースがほとんどだからである。(少なくなった前髪をフサフサにみせようとか、歯についたニコチンをザクトライオンで必死にこすり落としているとか、執拗に鼻毛の点検をおこなっているとか)
当たり前だがそーゆー姿を他人にさらすのは恥ずかしい。(他人のほーだってそんなものはみたくない)
だから人目のないところで「みだしなみ」を整えるわけでる。
そして、おれにとって「女のメイク」は、
「みだしなみ」の一種にカウントされているわけである。
ところが「電車メイク女」たちは「メイク」を、
おそらく「みだしなみ」としてカウントしていない。
もしカウントしているのだとすれば「みだしなみを赤の他人に披露することを恥ずかしーと思う感覚自体」が欠落しているのである。(おれを含む車内の人が「人としてカウントされていないケース」は考えられる)
で、なければ電車内でメイクなんかできるはずがない。
となるとおれの目に「電車メイク女」がどー映るであろーか。
おれにとっての「恥的ふるまい」を平然とこなす女。
おれには「電車メイク女」が「一片の恥もない女」にみえてしまうわけある。
そーして激しく「幻滅」する。
この幻滅とゆー言葉を、いまいちど字義通り考えていただきたい。
「幻」が「滅」する。
そーである。
こちらの「想像力」が「消滅」してしまうわけである。
もちろんこの「想像力」の中には「劣情」もふくまれている。
とゆーかおれの場合、想像力のほとんどが「劣情」だといっても過言ではない。
なのに劣情をもよおさない。
だって劣情とゆーのは、
「フフフ、もーこんなに濡れているよ」
とかささやいたりしとき女が恥ずかしがることを前提にわき起こる妄想だからである。
「一片の恥もない女」に対してその妄想は浮かべずらい。
「電車メイク女」がそのとき顔を真っ赤にして「いや、あああ」とかいって首をこねて恥ずかしがったりするとはどーしても想像できないのである。
早い話が、まったくムラムラしない。
それどころかプシューっと音をたてて性欲がしぼんでくるのである。
きっとかつては女たちの間に「そのへんの男の事情」が薄く広く行き渡っていたのだ。
だから「電車メイク女」がいなかったのである。
でも、そーすると、
なぜいまの女には「そのへんの男の事情」が行き渡らないのだろー。
どーしてこーまで「電車メイク女」が増えてしまったのだろー。
なぜ女たちは組織的に男の性欲を減滅させる道を選んだのだろー。
わからない。
と思っていたら現代思想家の内田樹先生のブログ記事を読んで、
はたと膝を打った。
内田樹の研究室 「増子化対策」http://blog.tatsuru.com/2009/09/13_1040.php
「少子化問題」というものは存在しない。
例えば、新石器時代に「少子化問題」というものは存在しなかっただろう(その時代に生きたことがないので想像だが)。
その時代の集団において、「最近、みんな結婚しないし、子供が生まれないのはまことに困ったことだ」というような問題があったとは思えない。
そんな問題をかかえた集団は数世代で(はやければ一世代で)消滅してしまったはずだから、そもそもそれが「問題」として意識される暇さえなかった。
「親族を形成する」というのは人間が人間である基礎条件の一つだからである。
(中略)
だから、今起きているのは、「親族を形成したくない」という集団解体めざす流れではなく、「子供の数を減らす」ことが集団の維持にとって必要だという判断に基づいた行動である。
私はそう理解している。
親族形成が「したい」という人はするし、「したくない」という人はしない。
一見すると、それぞれの人の自由意思の結果のようであるけれど、親族形成が類的宿命である以上、それに逆らう行動をとることには、個人の意思を超えた強い規制力が働いていると考えなければならない。
人口の増減はその社会の「キャリング・キャパシティ」によって決定される(これは人口社会学の古田隆彦さんに教えてもらった)。
carrying capacity というのは一定の環境の中に一種類の生物がどれだけ棲息できるか、その上限数のことである。「環境収容力」とも「環境許容量」ともいう。
グッピーの雌雄50匹を栄養の十分な養魚鉢に入れておくと、卵が孵化するたびに成魚が幼魚を食べ、個体数の増加を抑える。さらに成魚同士が共食いを始め、九匹になったところで個体数が安定する。(古田隆彦、『日本人はどこまで減るか』、幻冬舎新書、2008年、47頁)
人間もこの法則から自由ではない。
(中略)
人口減少が始まったということは、私たちの集団がその集団の意思として「人口が多すぎるから個体数を抑制しよう」と判断したからである。 なんとゆーことであろー。
日本はすでに「キャリング・キャパシティー」の限界を迎えていたのである。
日本列島に人口一億二千万人は「多すぎる」のである。
いつの間にか日本人は「人口を減らせ」とゆー類的課題を課せられていたのである。
といって人はグッピーのよーに卵を食べて個体数を減らすわけにはいかない。
だから、日本人は仕方なく受精以前の状態に目をつけたわけである。
「精子(が飛び散る機会)を減らす」ことを選択したのである。
なんと「電車メイク女」は日本人とゆー集団の意思を担い、
「男の性欲を減滅する」ために組織的にご出現なさっていたわけである。
そんなこととは知らなかった。
おれはいままで「電車メイク女」に対し、
なんと失礼な言葉を投げつけていたのであろーか。
電車でメイクに励んでいる婦女子の方々、
「皆様方の事情」を理解していなかったのはぼっちのほーです。
いやな役回りをすすんで引き受けてくださっていたとゆーたのに、本当にごめんなさい! だが、よくよく考えてみると、
もし「人口を減らす」ことが「日本人とゆー集団の意思」ならば、
その意思が「女性だけ」に働いているとゆーのは変である。
日本人の半分は男である。
男の中にだって「類的課題」を担った「新種男」が現れていーはずである。
と思ったら、いました。
ぼっちは「電車メイク女」の出現とときを同じくして、現代日本に現れた「新種男」の存在をうっかり忘れていました。
その「新種男」とはみなさんもよくご存知のあの
草食系男子の諸君である。 ぼっちは女でないからわからないが、
(草食系男子をみると思わず濡れてしまうとか、草食系男子を思い浮かべてオナニーする女性がいたら申しわけないが)
おそらく草食系男子が増えれば増えるほど、
日本全国から男性フェロモンの総量が減り続ける。
それにつれて「女の性欲」も同じよーな下降線をたどることになるのではあるまいか。
すでに一部の若い女の生活環境は、
「見渡す限り草食系しか生息していない」とゆー状態に変化しつつあり、
たいへんお困りのよーである。
やはりそーなのだ。
きっと「電車メイク女」は男の、
「草食系男子」は女の、
それぞれの性欲を減らすためにセットで現代日本に現れたのである。
彼らは「人口過多の日本」を救うために現れた救世主だったのである。
となると日本の人口が適正値に落ち着くまで、彼らはまだまだ増え続けるだろー。
それが「類的宿命」なんだからしかたない。
こーなったらもっともっと「電車メイク女」や「草食系男子」たちにがんばっていただき、
一刻も早く「人口増加」を担った女、
つまり「したくてしたくてしょーがなくなる女」が現れるのを祈るしかない。
そのときおれが生きていればいーのだが。
[追記]
この記事を書き終えた矢先、知人から「進化系電車メイク女が出現した」との報告がなされた。その知人が電車に乗った際、「微量な振動音」を耳にし、前の席に座った女を見下ろすと、彼女は「電動式のカミソリ」をもちいて鼻の下の産毛(ヒゲともゆー)のお手入れをなさっていたそーである。
日本人の人口減少はおれが考えるよりずっと早く完了するのかもしれない。

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- 2009/11/04(水) 15:41:04|
- さまざまな女
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ひと月ほどまえ脚本の注文が入った。
タイトルは「女教師縄地獄」。
原作はSM小説の巨匠、団鬼六先生なのだが、
「話の内容は団鬼六的世界であればどーこさえてもいー」
とゆー先方のご注文である。
「団鬼六的世界」といわれても、
ぼっちにはSM的素養がまったくない。
AVだって「SMもの」はまず借りない。
「レイプもの」も借りない。
かといって「M」にもさほど気がいかないし、
これといった「フェチ」でもない。
自分でゆーのもなんだが、ぼっちの恥的領域は、
作家としていかがなものか、
と思うほど、
ノーマルなのである。
ところがどっこい実際に書き始めてしまうと、
次々と「底意地の悪い女へのいじめ」を思いついてしまうのが不思議である。
しかも、書いている間、チンポはぴんこ勃ちしっぱなしなわけである。
いったいおれはどーゆー男なのであろーか。
よくわからないが、
とにかくチンポを勃てながらよーやく昨日初稿を書き上げた。
すると今日、プロデューサーのN田さんから電話が入る。
先方がこの話を「R18」でいくか「R20」でいくか揉め始め(つまり「成人指定」ね)、
とりあえず撮影は延期された、とのこと。
経験的にいって準備段階でいったんこーゆー「あや」がつくと、
制作は流れる可能性が高い。
流れたところで原稿料さえ頂戴できればぼっちが文句をゆー筋合いでもない。
でも今回は監督予定だった富岡さんの演出をみてみたかった。
それだけが残念である………。
ってまだ延期なのだが、
ぼっちはあきらめが早い。
たいへん早い。
いくのはもっと早い。
だから作品まで「早めにいって」しまうのであろーか。
いずれにしても、
たいへんむなしーことである。
- 2009/10/09(金) 04:58:27|
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昨日は亀蔵組の撮影があった。
桐原あずささんとゆーたいへん美しー(とゆーかかわいー)女優さんの、
華麗なる性技の数々に圧倒されたのち、
休憩時間に亀蔵組のスーパーエディターY佐氏とAV新企画について話し合う。
おれが主演女優の名にあげたのはいまワイドショーを賑わす酒井法子さんである。
「冒頭さー。
のりピーが変なクラブでノリノリでDJやってるわけだよ。
亭主は胡散臭いサーファーかなんかでさー。
そのうえ子供がいるのに薬にまで手をだして、
夫婦で狂乱のセックスをくりかえしてるの。
つまりのりピーは、
調子に乗りすぎてるわけ。
となるとやっぱりAV的には、
お仕置きしてあげないとまずいでしょ?」 すかさずY佐氏も同意を示す。
「だったら拘置所で取調官にお仕置きされるってゆーのはどーでしょー」
「いいなー、それ。タイトルはどーしよー?」
ここでY佐氏がすばらしータイトルを提案する。
その名も、
「ザ・マンモス折檻」 うーん。
なんと奥深いタイトルであろーか。
撮影に使用するのは、
もちろん覚醒剤ではなく媚薬である。
薬や縄やローソクやカンチョ―を駆使して、
のりピーに嗜虐の限りをつくすわけである。
そのときのりピーが快感に悶絶しながら絶叫する決めゼリフはこれ。
「この辱め、どーしてくれるのよ!」 うーん。
見たい。
のりピーを口説くことさえできたら、
超絶的メガヒットになることは間違いない。
唯一の問題は、
出演交渉に出向いた際、
のりピーがおれと会ってくれないよーな気がすることだけである。
- 2009/08/27(木) 08:30:50|
- 時事的なこと
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家もいらないし、
車もいらない。
時計もしない。
本当のことをいったら携帯電話もいらないし、
パソコンだって欲しーと思って買ったわけではない。
そもそも欲しーと思うものがあまりないのである。
夜露がしのげる場所があり、
酒があって、贅沢をいえばそこに女さえいてくれたら、
ぼっちはたいへん上機嫌に過ごすことができる男なのである。
そーゆー自分自身をおれは、
「手持ちのものがほとんどなにもないにもかかわらず上機嫌でいられる才能に満ち溢れた男」
と評価しているのだが、
心のねじくれた人々の中にはぼっちを、
「それ以外になんの取り得もないノーテンキなバカ男」
として譲らない方もおられるよーである。
たいへん心外である。
そーゆーおれであるからして、
「ブランド品」の価値がよくわからない。
まったくわからない、と申し上げていーと思う。
「あんなもん」なんで欲しーのかと思う。
「あんなもん」を手に入れたくらいのことで、
あたかも自分自身にまで「ブランドのタグ」が刻印されたよーに錯覚することのできる、
単純きわまりない心根のまずしさを、
心ひそかにうらやましーとさえ思っているのである。
ところがそんなおれが先日ある「ブランド品」を買ってしまった。
帽子である。
知る人ぞ知る「ボルサリーノ」である。
イタリア最高級帽子ブランドである。
映画のタイトルにもなった名品中の名品である。
なぜそんなものを買うはめになったかとゆーと、
ここは声を小にしていーたい。
おれの頭がでかかったためである。 なんとなく夏の帽子が欲しくなって(欲しーものがないはずなのに)
原宿のとある帽子屋に入ったはいーが、
おれに合うサイズがない。
頭囲59センチのハットは四種類しかないんである。
「黒のパナマ」となるともーたった一種類の帽子しか頭に入らないんである。
で、その一種類がボルサリーノだったわけである。
そのときおれが「帽子に出してもいー」と思っていた金額がまー6千円くらいまで。
当然だがそんな値段でボルサリーノは買えやしない。
うーん。
やっぱりやめよー。
そー思って帽子を脱ごうとした瞬間店員がいった。
「お客様、ほんとにそちらのお帽子がお似合いでございますねー」
人からあまり褒められたことのないぼっちは「褒め言葉」にたいへん弱い。
それが仮に社交辞令であれ、
みえみえのお世辞であれ、
明らかなセールストークであれ、
致命的なまでに弱い、と申し上げてよいと思う。
そんなわけで店員の「褒め言葉」に瞬間的に舞い上がり、
なかばパニックになったおれは、
気が付くと帽子を脱ごうとしていたその手で財布を取り出し、
入っていた金のほとんどを店員に差し出していたのである。
「うう! また、やってしまったー!」
と思ったのは、
金を支払う数秒間だけ。
店をでて実際にその帽子をかぶって歩くとたいへん気分がいー。
どー気分がいーかとゆーと、
そこらへんに歩いている連中の帽子がみなチンケにみえるのである。 みないーとこ5、6千円のたいへんみすぼらしー帽子に感じるわけである。
(自分だって「帽子には6千円まで」と思ってたくせに)
ヌハ。ヌハハハハハハハハハ。
まー、みすぼらしくみえてしまうのもいたし方あるまい。
だって、たったいまおれが頭に載せているのは、
そんじょそこらの帽子とはわけが違う。
なにしろ、
世界最高級ブランドなんである! 早い話が、もー完全に、
「上から目線」なんである。
前言を撤回する際の都合のよさにおいてぼっちは人後に落ちない。
「ブランド品」はたいへん素晴らしー製品である。
特にぼっちのよーに「安価なものしか持っていない男」がいったん手に入れると、
コンプレックスを補完する絶大な効果を発揮してくれるよーである。
たとえばぼっちは洋服を買うことがたいへん苦手である。
なぜかとゆーと、ここは再び声を小にしていいたい。
絶望的なまでに脚が短いからである。 店員さんに「すそ上げ」などしてもらったひには、
自分でも「これは七分丈か」と錯覚するよーな仕上がりである。
そーゆー不格好な男が、
少しでもかっこよくなろーとして、
「似合いもしない服を選んでいる」そのこと自体が恥ずかしー。
よーするにぼっちはかなりの自意識過剰人間なんである。
にもかかわらず、
自意識のつまったそのでか頭にボルサリーノを載せただけで、あーら不思議。
ジーパンなどを選ぶ際、若くてかわいー女店員さんに、
「ウエスト32、レングス29を探してもらえる? フフ。こんだけ丈が短いと自分で見つけるのたいへんだからさー」
なーんて軽々と自分の恥部をカムアウトしつつ、
ジーパンを選んでもらったりできるのでる。
さらにそのサイズのジーパンの種類が(帽子のとき同様)少なかったりすると、
「やっぱり脚の短い人間のはけるものは限られちゃうねー。ハハ、ハハハハハハハ」
などと余裕のバカ笑いすら発しているわけである。
となると女の子のほーも次第に打ち解け、声をひそめてこんなことを打ち明けてくるのである。
「お客様、じつはわたしも足が大きくて苦労してるんです」
「あー、そー。でもそーは見えないよ」
「お客様だって。腰穿きなされば全然いけてますよ」
「ほんとーかなー」
「ほんとーですって」
「そー。じゃあなたを信用して買っちゃお

これください!」
「ありがとうございます

」
すっかり店員さんと仲良くなるケースまででてきたわけである。
すべては頭に載せた「世界最強級ブランド」(しつこい)のお陰である。
もちろん秋になったら、
さっそく冬物の「ボルサリーノ」を買う予定である。
そのときぼっちはいったいどれほど「開放的な男」へと変貌しているのであろーか。
いまからそのときが楽しみである。
そーゆーおれ自身をおれは、
「たかが頭がでかかっただけで際限なく上機嫌になれる才能に満ち溢れた男」
と評価したいと思っているのだが、
心のねじれた人々の中には、
「たかが帽子を買ったくらいで舞い上がっている頭でっかちのバカ男」
として譲らない方もおられるよーな気がする。
たいへん心外なことである。
- 2009/08/03(月) 15:05:41|
- 俺のこと
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