- 2012-10-27
柴田千晶「生家へ」(思潮社)

友人の詩人、柴田千晶さんが、自作詩集を送ってくれた。
表題は『生家へ』。
さっそく読み始める。
「春の闇」
「朴の実」
「驟雨」(28ページ)
まで読んで、ため息を洩らし本を閉じる。
まずいことになったな、と思う。
なんとなく本の中から、包丁を研ぐような音が聞こえてくるのである。
いくぶん緊張しないことには読めないのである。
くだらない出会い系記事を書いている合間に、椅子にふんぞりかえって読めるような本ではない。
そんなわけで仕事をやっつけてから、一気に読んでみた。
考えてもみると(いや、考えるまでもなく)いままでおれは、書くにしても、読むにしても、観るにしても、エロバカバイオレンスコメディオンリーの、───つまり通俗一辺倒の低俗男だった。
自慢ではないが、好きな詩はと問われたら、昭和歌謡のワンフレーズくらいしか思い出せない、詩についてたいへん造詣の乏しい人間である。
そのような男が、柴田さんの詩をどう読んだかのか。
あるいはお呼びじゃなかったのか。
思うところを書いてみたい。
「生家」とは普通、「その人の生まれた家」を意味する言葉である。
でも、読みすすめるうち、柴田さんの書いている「生家」には、どうやら違う含意もありそうな気になってくる。
とうの昔に滅びたはずなのに、いまもどこかにひっそり佇んでいる家。
ゾンビのように殺しても殺しても生きかえってくる家。
理由はわからないが、とにかく「生きている家」。
柴田さんの生家は、そういう「生家」でもあるのだ、きっと。
なんだかホラーである。
あまり帰りたい家ではない。
ていうか、もう全然近づきたくない。
それなのに彼女のゆくところ、生家にみちびこうとするあやかしの回路のようなものが、あっちこっちで待ち伏せている。あるいはふいに出現して彼女を誘導する。
たとえばその回路は、
「闇に滲む椿の赤を避けながら歩く。と、それは椿などではなく、鶏の赤い鶏冠だった」り、
京浜急行から見下ろすちょんの間街に投げだされた「切断されたような女の足」だったり、
「懲罰のように崖の上に建ち続けて」いる殺人者の廃屋だったり、
炎の形をし、じつは男性器にも見える朴の実だったり、
男が眠るシーツの上でウイーンウイーンと蠢く黒いバイブレーターだったり、
アパートの窓辺で女の腋毛を剃っている男だったり、
網タイツに浅蜊を詰め込む女だったり、
ときには「犬っこ祭りで賑わう商店街」であったりして、
獣の血の匂いや男が食ったという得体の知れない肉の味や死んだ貝たちの放つ腐臭とともに、彼女をひょいと体液の濡れ光るほの暗いところにテレポートしてしまう。
彼女が移動を続ける場所は、気だるく凄惨で、容赦ないのに生温く、ときにグロテスクで、そして、ときに綺麗なのである。
D・リンチの映画に登場する異形者たちが、うっかり美しくみえてしまうように。
柴田さんはいま『詩客 SHIKAKU』というサイトで、詩評エッセイ「黒い十人の女」を書いている。
「黒い十人の女」とは、10人の女凶悪犯(あるいは被害者)のこと。
その後ろ暗い「黒い女たち」と女流詩人とを重ね合わせ、詩人の作品と来歴を論じている。
(最新作は「寺田京子×東電OL」)
しかし、柴田さんはどうして女流詩人と黒い女を重ねてみようと思ったのだろう。
いや、なぜ「重ねることができる」と思ったのだろう。
おそらく彼女は詩作を犯罪と同じようなものだと考えている。
同じようにむごいと思っている。
だとすると、このエッセイには11人目の黒い女がいるはずである。
いなければおかしい。
もしこのエッセイで「女流詩人柴田千晶」を扱うとしたら、柴田さんは自分にどんな女凶悪犯を重ねるのだろう。
詩集の主人公である「私」は、生家に自分の身体を差しだす生贄のようでもあり、重罪を犯し、生家にたどりつこうと喘ぐ逃亡犯のようでもある。
春の闇バケツ一杯鶏の首
それぞれの詩編は小見出しとなった俳句から始まり、いろんな男と交わり、胚胎し、転生したりしながら、よくわからないストーリーがループ状になって展開していく。
そう。
この詩集には、粗筋をいえといわれると困るけど、へんてこなストーリーがある。
それは俳句という「定型詩」と「現代詩」のコラボが関係しているのか。
コラボの効果がへんてこなストーリーにつながっているのか。
正直よくわからない。
だっておれは定型詩のことも現代詩のことも、そもそも詩のことだって全然よくわかってないのだ。
おれの場合、文学についてわからないことは、すべて小説家の高橋源一郎さんに丸投げすることになっている。
というわけでさっそく訊いてみよう。
高橋さん。
ところで詩っていったいなんなんすか?
詩の本質と考えられるものの一つに、「改行」があります。「改行」というものは、なぜ存在するのでしょうか。詩人に聞いてもはっきりとは答えてくれません。わたしの考えでは、詩人が改行するのは、その行のところでことばの角を曲がるからです。一つの行を書く、ある場所に到達する。その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。それに対して、詩人は角に来たら曲がりたくなる性質を持っています。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです。角を曲がるとまた角がある。───『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎(岩波書店)
さすが高橋さん。
エロバカ文化人にもわかるように諭してくれる。
高橋さんに倣えば、詩人とは、
改行することによって、ついことばの角を曲がってしまう人。
ことばの角に差しかかったら、角の向こうに「自分の知らないなにかがあるのではないか」という思いにかられ、その角を曲がらずにはいられない人。
ということになる。
でも、高橋さん。
困ったことに柴田さんの書いているのは「俳句」と「散文詩」なんです。
俳句は一行で済んでしまいます。
散文詩のほうはほとんど「改行」してません。
つまり、この詩集には「ことばの角」が極端に少ないんです。
っていうか「ない」に等しいんです。
となると、柴田さんは詩人の本質からずれているってことになるんでしょうか?
歌人の三宅やよい氏は、『週刊俳句』で柴田さんの詩集をこう評している。
「湿ったもの」の正体 柴田千晶『生家へ』を読む
柴田が表す体は男性が女性の「身体性」と語るとき頭に思い描く女性らしき身体または、女性が男性を引き付けるために差し出す媚を含んだ「身体性」とは明らかに違う。見せられると嫌な女の性欲があからさまな「身体性」である。しかしそのぬめった性欲も交錯する死と隣合わせであるがゆえに滅びを予感させ、肉体があることの悲哀さえ感じさせる。
と、この詩集のオリジナリティを評価したうえで、
しかし、一つ不満を述べれば話が面白すぎる。
ストーリーテラーとしての柴田の資質が踏みとどまるべき言葉を追い抜かして話を形づくってしまったように感じる部分がいくつかあった。ここまで書いてしまうと小説に手がかかっているのでは、そんなことも予感した。
と、いう風に釘を刺してもいる。
(「不満を述べれば話が面白すぎる」といういい方は、いくぶん屈折した「褒め言葉」でもあるのだろうけど)「踏みとどまるべき言葉を追い抜かして話を形づくってしまったように感じ」た三宅氏は、詩の境界をはみだそうとする柴田さんの「過剰さ」に対し、やんわりと自制をうながしているのである。
でも、これは「詩の側」からの感想である。
じつは柴田さんは詩や俳句の他に、映画やドラマや漫画のシナリオも書いている。
いわゆる風俗小説も書いている。
つまり、さまざまな通俗文芸(文学、ではないと思う)にも通じている。
通俗文芸的な文脈の中に、不用意に「詩的な言葉」や「観念的言語」を放り込むと、それがどれほど陳腐なものに変わってしまうかも、柴田さんはおそらくよくわかっている。
つまり、「使う道具が違うこと」をわかっている。
もし、この詩集を原作とした「風俗小説」の注文が入れば、柴田さんはすぐさま同じ材料を違う道具を使って通俗作品に仕立て直すことのできる腕を持っている。
だから、
ここまで書いてしまうと小説に手がかかっている
という三宅氏の感想は、深く同意できるにかかわらず、「通俗の側」に立っているおれにしてみると、まったく正反対の掻痒を覚えるのである。
だって、この詩集にはシナリオに於ける「売り」があって「買い」があり、ときには「ドンデン」めいたものまで散りばめられているのだ。(クライマックスでは、母の描く生家の間取り図とともに、部屋がどんどん増殖してゆき、襖を開くたびに、顔見知り男女が絡み合い、しまいには近親相姦にまでなだれ込む壮大な鬼畜乱交シーンとなる)
ここまで書いちゃったんなら、いっそ小説にしちゃえばいいじゃん!
何度かそう思った。
つまり、おれは「小説に手がかかっている」という三宅氏とは逆に、この詩集にはむしろ「小説にさせないための」禁欲や抑制が、かなり強くかかっていると感じたのだ。
この作品はギリギリで小説にならないでいる。
なんで詩なんだ?
高橋さんは詩人と小説家との違いを、以下のようにいっている。
その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。
──中略──
小説家なら角ではなくメインストリートをまっすぐ歩いていきたいと思うでしょう。しかし詩人はその角の向こうにある、隠されているなにかが気になってしょうがない存在なのかもしれません。
では、ここで柴田さんに俳句創作の要諦について述べてもらおう。
深入りするうちに俳句が恐ろしい詩形であることに気づいた。俳句は定型の枠に従順に収まることを望まず、定型を簡単に破ることも望まない。一句の中で風景、肉体、記憶、時間、イメージ、色彩、観念などが犇めき合い爆発寸前で屹立している。(「生家へ」あとがき)
柴田さんは、きっと孫悟空の頭にはまった緊箍(きんこ)のようなものを巻いて俳句を創っているのかもしれない。
過剰でなければならず、しかし逸脱は許されない。
逸脱しようとすれば、(逃げようとすれば)俳句が呪文を唱えて緊箍がギリギリと頭を絞めつけてくる。
だったら詩の場合はどうなのだろう。
定型という枠のない詩もまた怖ろしい。果てしなく増殖してゆくイメージに溺れてしまえば帰る岸を見失う。
柴田さんは詩に対し「定型という枠のない」といってる。
でも、本当に詩に「枠はない」のだろうか。
詩は彼女に呪文を唱えてはいなかったのだろうか。
彼女は緊箍からそれほど自由だったのだろうか。
(通俗文芸にも通じた)柴田さんは、この詩集を手掛けている間、ときには小説家のように「ただ早く目的地に着」きたくて、「メインストリートをまっすぐ歩いていきたい」という誘惑にだってかられたはずだ。でも、そのくせことばの「角の向こうにある、隠されているなにかが気になって」仕方なかったのだ。
駆け抜けたい。でも、のぞきたい。
食べたい。でも痩せたい、と同じダブルバインド。
定型から逸脱したがる俳句と、
小説に手がかかった散文詩は、
じつは同型の緊箍にギリギリ絞めあげられている気がおれはしたのである。
生家へたどりつくには、通俗文芸が隠し持っている「説明という道具」は使えない。
詩はそんな都合のいい道具の使用を許さない。
緊箍を嵌め、素っ裸で、
いがだらけの隘路を行く罰当たりを、あるいは詩人と呼ぶのかもしれない。
ほとんどどうでもいいことですが、柴田さん。
おれの小説と柴田さんの詩集に、ひじょうに似た言葉がふたつだけありました。
ひとつは「汐まねき」。
おれの場合は「潮まねき」。
柴田さんの汐まねきは「蟹」です。
でも、おれの潮まねきは「おもちゃ」です。(はい。そのおもちゃが、海ではなく女性から潮を呼び寄せるわけですね)
もうひとつは「設楽」という男の名前。
おれの場合は「シダラ」という変態筋肉オタクのヤクザの名前に使いました。
偶然です。
最後はかっこよく俳句で締めるつもりだったのに、やっぱり創れなかったので、こんなどうでもいい話になりました。
あと、この記事の挿画と柴田さんの詩集とはまったく関係ありません。
じゃ載せるなよ。
じゃんじゃん。
- 2012-09-30
【映画人のどうでもいい話】④
[馬場当 編] その3
馬場さんは自分が料理上手だと思っていた。
でも、実際はまるっきりの料理下手だった。
(「触れるものすべてが金に変わってしまう魔法」を授かったミダス王のように、極度に不器用で不潔っぽかった馬場さんは「触れる食材のすべてを不味そうなものに変えてしまう魔法」を授かっていたかのようだった)
さらに悪いことに、馬場さんは自分を食通だと思っていた。
でも、実際はかなりの味音痴だった。
(そもそも馬場さんの仕事場の台所には、ろくに調味料がなかった。なので、仕事場では、おれが記憶する限り、「しょっぱい」か「甘辛い」料理しか作れなかった。それでも馬場さんは、自分の味付けにたいへん満足しているようだった)
そんなわけなので、本当のことをいうとおれは馬場さんのつくる料理を全然食いたくなかった。
そうはいっても何時間もなにも食わずそこにいられるはずがない。
だいいち仕事場にいて馬場さんの料理を食わないなどということは許されない。
おれにとって仕事場での食事は「必然的な憂鬱」そのものだった。
そんなある日の夕食のこと─────。
すっかり食事の準備が整ったというのに、馬場さんが席につこうとしない。
馬場さんはとにかく無心になって魚のパックをひっかいている。
もちろん馬場さんが席につかないことには食事は始まらない。
何度呼んでも馬場さんの反応はない。
いったいなにをしてんだろう。
仕方なくおれが立ち上がり、馬場さんの手元を覗きこんでみると─────。
パックに印刷された「シソの葉」を剥がそうとしていたのであった。
「それ、食えねーよ!バーカ!」
とは、もちろんいえなかった。
馬場さんは自分が料理上手だと思っていた。
でも、実際はまるっきりの料理下手だった。
(「触れるものすべてが金に変わってしまう魔法」を授かったミダス王のように、極度に不器用で不潔っぽかった馬場さんは「触れる食材のすべてを不味そうなものに変えてしまう魔法」を授かっていたかのようだった)
さらに悪いことに、馬場さんは自分を食通だと思っていた。
でも、実際はかなりの味音痴だった。
(そもそも馬場さんの仕事場の台所には、ろくに調味料がなかった。なので、仕事場では、おれが記憶する限り、「しょっぱい」か「甘辛い」料理しか作れなかった。それでも馬場さんは、自分の味付けにたいへん満足しているようだった)
そんなわけなので、本当のことをいうとおれは馬場さんのつくる料理を全然食いたくなかった。
そうはいっても何時間もなにも食わずそこにいられるはずがない。
だいいち仕事場にいて馬場さんの料理を食わないなどということは許されない。
おれにとって仕事場での食事は「必然的な憂鬱」そのものだった。
そんなある日の夕食のこと─────。
すっかり食事の準備が整ったというのに、馬場さんが席につこうとしない。
馬場さんはとにかく無心になって魚のパックをひっかいている。
もちろん馬場さんが席につかないことには食事は始まらない。
何度呼んでも馬場さんの反応はない。
いったいなにをしてんだろう。
仕方なくおれが立ち上がり、馬場さんの手元を覗きこんでみると─────。
パックに印刷された「シソの葉」を剥がそうとしていたのであった。
「それ、食えねーよ!バーカ!」
とは、もちろんいえなかった。
- 2012-09-17
【映画人のどうでもいい話】③
馬場当 編②
馬場さんはシナリオの師匠だったが、シナリオのことなんか全然教えてくれず、いつも女のことを話していた。
おれが付き合っていた女に棄てられたときのことだ。
馬場さんはおれにいった。
「ひとつでいいんだ、ぼっち」
「──ひとつ、ですか」
「どんなダメ男でもいい。女癖が悪くたっていい。どうしようもないロクデナシだけど、ここだけは信用できる。そういう信頼をだな、いいか? ひとつでいいんだ。ひとつだけ女にバチっと感じさせておかないからダメなんじゃないか、おい」
「──信頼、ですか」
馬場さんは大きくうなずくと、
「たとえばだなあ」
ポンポンと煙草の灰を落として続けた。
「女とやった後なんか、布団でぼんやりしている時間があるだろ?
そういう時間帯にだな、なにげなく呟くんだ。
『おれは色々な人間に色々なウソをつく男だけど、どうも君にだけはウソをつけないなあ』
とかさ」
「──ああ、なんかそれ実感あるなあ」
と、おれはいった。
だが、馬場さんはゆっくりと首を振って、
と、言った。
馬場さんはシナリオの師匠だったが、シナリオのことなんか全然教えてくれず、いつも女のことを話していた。
おれが付き合っていた女に棄てられたときのことだ。
馬場さんはおれにいった。
「ひとつでいいんだ、ぼっち」
「──ひとつ、ですか」
「どんなダメ男でもいい。女癖が悪くたっていい。どうしようもないロクデナシだけど、ここだけは信用できる。そういう信頼をだな、いいか? ひとつでいいんだ。ひとつだけ女にバチっと感じさせておかないからダメなんじゃないか、おい」
「──信頼、ですか」
馬場さんは大きくうなずくと、
「たとえばだなあ」
ポンポンと煙草の灰を落として続けた。
「女とやった後なんか、布団でぼんやりしている時間があるだろ?
そういう時間帯にだな、なにげなく呟くんだ。
『おれは色々な人間に色々なウソをつく男だけど、どうも君にだけはウソをつけないなあ』
とかさ」
「──ああ、なんかそれ実感あるなあ」
と、おれはいった。
だが、馬場さんはゆっくりと首を振って、
と、言った。



















